詩学:ゲームシナリオに応用するための私的まとめ

=前置きの前置き=

RPG的なゲームを思いついたのでそれを作成中なんだけど、そのために久々に詩学を読み直したりしてた。

で、ゲームの方は並行してあれこれ作ってるてリリースはだいぶ先になりそうなので、詩学を読んでまとめたものを先にUPしておく事にした。

=前置き=

詩学」という本は主に「劇」の構造についての本である。この本は「ご都合主義で動かすな(意訳)」とか「妥当な事を積み上げた結果として意外な結論に導け(意訳)」など、現代でも通じる話が書いてある。

ただ、もともとが紀元前に書かれたものであり、手元にある本も初版が20年前のもので、さらに文体が古いうえに注釈が離れたページにあるためわかりづらい。また、現代においてはマッチしない部分や、自分が実際に使うゲームシナリオにおいては不要な部分などもあることから、自分用に私見を含めてまとめておくことにした。

前述の通り私見が混じっており、自分にとって不要な部分は削除しているため、詩学そのものではない事に注意。特に、詩学においては「悲劇」をメインターゲットとしており「悲劇固有の体験」について述べているが、自分はハッピーエンド至上主義過激派に属する人間なので「ハッピーエンドで終わる物語」としても使える部分しかまとめていない。

=概要=

前置きで軽く述べたが、詩学は主に「悲劇」の構造について語られた本である。いくつかの要素は悲劇固有の要素ではあるものの、それ以外の大部分は(特に現代では)あらゆる物語に応用可能な論理である。


以降ではそれらの論理を「基礎的な部分」「整合性に関する部分」「娯楽性に関する部分」に大別して再構築したうえで説明していく。

=基礎:フィクションの楽しさとは=

フィクションとは「現実の模倣」である。そして人は模倣を楽しむ。

カイヨワの4分類にもあるように模倣(ミミクリ)は極めて原初的な楽しみであり娯楽の一要素である。また、赤ん坊が親の言葉を真似して発するように、模倣は学習そのものでもあり、新しく学習すること=今までできなかった事をできるようになる喜びでもある。

厳密に言えばフィクションは「模倣したものを見る楽しみ」であるため、原初的な楽しみである「模倣する楽しみ」と完全には一致しない。ただ、感情移入によって登場人物に自分を投影することで「模倣する楽しみ」を得ているとも考えられる。

学習の観点から言えば「まだ体験したことのないもの」を、娯楽の観点から言えば「体験したいと思っていたもの」を提供することがフィクションの楽しさを提供する事になるかと思うし、感情移入を促すことでその楽しみを深めることができるだろう。

=基礎:筋とは=

詩学において何より重視されるのが「筋」である。

「筋」とは簡単にいえば「現象の並び」である。「誰かが何かした」「何かが起こった」という一連の出来事の並びが筋である。

優れた悲劇は優れた筋によって作られ、優れた筋は「適切な長さ」「適切な順序」「適切な情報提示」など色々な要素を満たすことで達成される。

筋に関する具体的な作法については後述の整合性と娯楽性にて説明する。

=基礎:全体の構成=

「区切り」と「長さ」

「区切り」とは「始まり」「中間」「終わり」の事である。これらは決して序破急や起承転結の事ではなく、「始まるべきところから始まり、終わるべきところで終わる」という事である。言い換えれば「半端なところから始まってはいけないし、半端なところで終わってもいけない」という当たり前の事だ。しかし、打ち切り漫画などでは「終わるべきところで終わる」を達成するのは難しい場合がある。つまり、作り手にとっては決して当然の事ではなく、改めて意識する必要がある部分だ。

「長さ」の方は「物語全体の長さ」の事である。再び漫画を例に出すが、例えば1ページで完結できる物語を10年かけて描くと間延びするか別の要素が入らざるを得ないし、10年以上かけないと描けないものを1ページに詰め込むのはムリがある。つまり、それぞれの物語には相応しい長さがある。適切な長さはテーマに依存するため、尺の方が先に決まっているのならテーマ自体を考え直す必要があるかもしれない。
適切な長さの条件としては「読者が全体を見渡せる長さであること」と「筋が普遍性(後述)を持ち、変転(後述)を起こすのに十分な長さ」が挙げられる。普遍性については整合性にて、変転については娯楽性にて説明する。


=整合性:統一感=

ここからは整合性についての説明となる。最初に説明するのは「統一感」についてだ。

例えば人間は「食事をする」「寝る」「用をたす」などの行為を行うが、これは劇中で必要とされない限り描写されないし、描写するべきでもない。必要のないものまで描くと物語は冗長となるし、物語で描きたかったものがぼやけてしまう。つまり「物語にとって必要なもの」「必然性のあるもの」だけを描くべきである。より具体的には「それがなくても成立する」のなら外すべきであるし、逆に言えば「全てのパーツが関連しており、排除することも代替することも不可能」という状態こそが望ましい。

ただし、必然性などを過度に狭くする必要もないだろう。例えば「戦闘後の宴会シーン」は緊張状態から開放状態に遷移した事を示す事ができるため、「宴会中に重要な情報が出たり物語が動くわけでもないのでカット」としなくても良い。(カットしても良いが、それは作者が何を見せたいかによるだろう)

重要なのは「全体をぼやけさせない事」であり、ぼやけさせるような要素は排除すべき、という事だ。


=整合性:筋を通す=

次は「筋を通す」事についてだ。詩学においてこれは「普遍性」と呼ばれる。

これは「同じ性格・思想のキャラクターが同じ状況になった場合、同じ行動を行うはずだ」というものであり、この考えに基づいて筋を組み立てるべきという考えである。再現性や妥当性と呼んでも良いかもしれない。

また、「キャラクターの再現性」だけでなく「状況の再現性」も重要となる。すなわち「一つ前の状況が同じであれば今の状況になるはずだし、今の状況であれば次の状況も同じになるはずだ」というものだ。

この考えに基づいて組み立てれば物語の整合性を保つことができ、読者も納得しやすいので物語への没入を促す事ができるだろう。(厳密には没入を妨げる要素を排除する事になるだろう)

=整合性:メディアによる齟齬=

例えば文章上では問題なさそうだったものが、実際に絵や映像がつくことでおかしくなる要素がある。ここではこれを「メディアによる齟齬」と呼ぶ。

これは2つの解釈ができる。すなわち、「小説においても映像などを想像することでこの手の失敗を防ぐことができる」という解釈と、「映像にするとおかしいものも、小説であれば問題なく見せることができる」という解釈である。

現代においてはマルチメディア展開が珍しくないため、失敗を防ぐ(整合性を保つ)方の解釈が有効かとは思うが、もう片方の解釈も「そのメディアならでは」の部分となるので意識はしておきたい。

=整合性:不合理の扱い=

ここまで述べたように筋は合理的に組み上がっている事が望ましい。しかしどうしても不合理な要素を排除しきれない場合がある。その場合の対応として考えられるのが「話の外に置く」という手法と「現実を元にする」という手法である。

「話の外に置く」とは「不合理な事は物語で語られない範囲(始まりの手前など)で起こっている」とする事である。これにより、物語の内部には不合理が混じらず、物語内では筋が通せる事となる。

もう一つの「現実を元にする」とは「現実で起こる不合理な事を元にする」という事である。現実においても不合理な事は往々にして起こり、現実でもよくある不合理であれば読者はそれを矛盾としては捉えないだろう。

=整合性:作者のミス=

厳密には「整合性」ではなく「正しさ」についてであるが、この項では「作者のミスとして扱われるもの」について説明する。

作者のミスとして扱われるのは「物書きとしてのミス」と「別分野の知識のミス」の2種類である。

「物書きとしてのミス」とは、整合性や娯楽性に問題があり、筋に統一感や妥当性がなく破綻しているものなどを指す。

「別分野の知識のミス」とは、「メスのライオンなのにタテガミがある」「銃をリロードせずに連発している」などの、筋とは別の問題を指す。


現代においてはどちらも同じように作者のミスとして扱われるが、「知識のミスがあるが面白い物語」と「知識がおかしい部分は一つもないが面白い部分も一つもない物語」を比べればわかる通り、シナリオを書く際は「面白い物語」すなわち「物書きとしての技量」の方に注力すべきである。ただし、あくまで優先順位の問題であって、どちらのミスもない物語が描けるのであればそれに越したことはない。


ちなみに「現実ではありえない」「現実と違う」というのはミスではない。「現実の中世にそんな文化はなかった」と言われようがそもそも魔法やドラゴンが出てくるようなところにそんな事を言っても意味はないし、「ハッカーは画面にそんな表示を出さない」「弓はそういう風に構えない」なども同様である。ノンフィクションを謳わない限りそれはそういう世界という事である。


「別分野の知識のミス」と「現実との齟齬」はとても似ている。むしろ起こっている事だけ見れば同じと言っても良い。ではどこに違いがあるかというと「主題に関係するか」と「一般の人にとっても気になるか」の2点であると考えられる。
例えば現実のハッカーがやっている事はとても地味である。少なくとも画面映えはしないだろう。しかし「ハッカーを主軸とした物語」であればその部分も丁寧に説明した方が良いだろうし、一般的にハッカーと呼ばれる存在は厳密にはクラッカーであることにも言及した方が良いかもしれない。それに対し、「ハッカーは単なる登場キャラの一人」というのであればキーボードを高速で叩いてどこかからデータを持ってくるのでも十分だろう。現実のハッカーでもない限り、それについてとやかく言う人間は少ない。
大抵のシナリオには色んな職業の人間が登場し、それら全ての職業に精通する事は不可能と言ってよい。それ故に、プロフェッショナルからのツッコミは完全には回避できない。そのため、主題でない部分については「プロフェッショナルから見ておかしいかどうか」よりも「一般の人から見ておかしいかどうか」を優先して考えるべきだろう。大抵の読者はその道のプロなどではないのだから。


=娯楽性:逆転と認知と変転=

詩学において娯楽性は主に「哀れみ、恐れ、カタルシス」と「逆転、認知、変転」の2つからなる。

「哀れみ、恐れ、カタルシス」は雑に言えば「負の感情を膨らませ、ゼロにする事でカタルシスを得る」という感じのものであるが、詩学内でも説明不足の部分や矛盾する部分があるため詳しくは説明しない。そのため、以下では「逆転、認知、変転」について説明する。

詩学においては「逆転か認知(あるいは両方)が起こりながら変転が生じるもの」が素晴らしい筋であるとする。これは「複合的な筋」と呼ばれ、それに対して「逆転も認知も起こらずに変転が生じるもの」は「単一の筋」と呼ばれる。

「逆転」とは「想定した結果とは真逆の事が起こる」というものである。ここで「想定した」と言っているが、これは「読者が想定したもの」ではなく「キャラクターが想定したもの」である。例えば「誰かを助けるための行動が結果的にその人を殺してしまった」「誰かを殺そうとしたのに、逆に殺されてしまった」などが「逆転」である。

「認知」とは「登場人物が特定の情報を知ること」である。単純な事に見えるが、これにはいくつかの種類があり、それらの種類によって幼稚に見えたり素晴らしい構成に見えたりする。この種類については別項にて説明する。

「変転」とは「不幸だったものが幸福になる事」や「幸福だったものが不幸になる事」である。ハッピーエンドの物語の場合は「不幸な主人公が幸福になる」となるし、バッドエンドの場合は逆になる。

例えば「モンスターを倒した」という状況の直後、そのモンスターの身体的な特徴(固有のアザなど)や所持品などから「実はそのモンスターは主人公の家族であった」となった場合を考える。これはまず「実はモンスターが主人公の家族だった」という「認知」が起こり、それによって「モンスターを討伐した達成感から家族を殺した絶望感へとシフトする」という幸福→不幸の方向の「変転」が起こる。また、そのモンスターを倒した理由が「家族を守るため」であったなら「家族を守ろうとした結果、家族を殺してしまった」という「逆転」も起こる。ベタな構成ではあるが、このように認知は変転などを起こす重要なファクターであり、例示にあるように変転と逆転は似て非なるものである。また、先ほどの例に後から逆転の要素を加えた場合からわかるように、変転と逆転が同時に起こった方が物語の重厚性は増す。

=認知の種類=

詩学において認知の種類は6つに分けられる。ここでは詩学と同様、価値の低い順に説明する。

1.印(しるし)による認知

ここでいう印とは「身体的な特徴(星形のアザなど)」や「特殊なアイテム(この世に一つしかない首飾りなど)」である。これらによって「例の家系の存在である事」や「生き別れの兄である」などを伝える事を「印による認知」と呼ぶ。

一番価値が低いものとして扱われているが、詩学における例においても「逆転と共に起こる認知」のようなものは素晴らしいとされている。つまり、あくまで作者の都合で印を使うようなご都合主義を否定しているだけであり、他の要素と比べて低いだけであると言える。

2.作者の都合による認知

そのまま「ご都合主義」の事である。何の必然性もなく、ただ作者にとって必要だったからという理由だけで特定のキャラクターが勝手に情報を喋る事などを指す。

詩学においては「印による認知」と同等に扱われているが、これは作者の都合でキャラクターに印を持たせても同様の効果が得られるからである。

3.記憶による認知

詩学においては例示が不足しているが、「何かを見ることによって記憶から認知される(思い出す)」というものである。

4.推論による認知

これは「推論することで(その人の中だけで)情報を認知する」という事である。詩学の例では「自分に似た人が来たが、それは自分ではない。では自分の弟のはずだ」というものや「姉も生贄にされたのだから自分も生贄にされるに違いない」というものが挙げられている。

5.読者をミスリーディングしたうえでの認知

これは読者が「この方法でバレる(バラす)に違いない」という推測をしている状況下で、全く別の(しかし妥当な)方法で認知させるものである。

6.必然性・妥当性のある認知

詩学においては「出来事そのものから起こる認知」と呼ばれているが、優れた筋は必然性・妥当性のある出来事を並べたものであるから、これは「必然性・妥当性から生じる認知」の事である。

5番までの認知には必然性があまり関係ない。「思い出すかどうか」や「どう推論するか」は(ものにもよるが)作者の一存次第とも言えるので必然性が薄い。「作者の都合による認知」などは論外だし「ミスリーディング」に関しては必然性と全く関係がない。

まとめ

筋を作る場合と同様、認知においても必然性や妥当性に気を配る必要がある。推論や記憶によるものであってもある程度の妥当性には気を配る必要がある。また、ミスリーディングは必然性とは無関係なので組み合わせることができるし、逆転などを一緒に起こすことでより効果的になる。

=娯楽性:偶然の扱い=

ここまで述べてきたように、優れた筋は必然性と妥当性の積み重ねによって作られる。ただしこれは「偶然性の否定」ではない。

例えば「悪役に殺された人間の墓に、その悪役が頭をぶつけてトドメをさされる」「卑劣なボクサーが土下座するように倒れて決着」などは必然性・妥当性・再現性がないものの、天罰や報いとして読者には受け入れられやすい。ただし、そのような偶然性がなくとも決着自体はつくことが望ましい。すなわち、筋が必然性と妥当性だけで成立したうえで、さらに偶然性による娯楽性を付与するような扱いが望ましい。

=娯楽性:ミスリーディング=

詩学においてはミスリーディングのやり方について2種類述べられている。実際にはもっと色々と考えられそうだが、ここでは詩学で語られた範囲に留める。

1つは論理学を利用したものである。例えばゾロという名前の剣士が居たとしよう。つまり「ゾロは剣士である」という命題があったとしよう。論理学において正しいのは「剣士でないならゾロではない」という対偶のみであり、「ゾロでなければ剣士ではない」や「剣士ならばゾロである」というものは正しくない。しかし、「さっき向こうに剣士が居たんだ」というセリフがあり、その場にゾロが居なければ「その剣士はゾロだろう(剣士ならばゾロである)」という風に読者のミスリーディングを誘えるだろう。また、応用として「武器も持っていないのにやたら強いやつが居る」というセリフではそれをすぐにゾロだとは思わないだろう。あくまで命題は「ゾロは剣士である」であり、「ゾロは常に武器を使って戦う」というものではないのだが、「剣士だから武器を使って戦うものだ」というミスリーディングを起こすことができる。
ただし、これは「ゾロは剣士である」という基本的な命題をきちんと見せたうえで(=読者に意識させたうえで)行うのが望ましい。剣士としてのキャラ立てができないままではこういったミスリーディングの誘発は難しいだろう。

もう1つのミスリーディングの手法は認知の項でも出てきた「Aでバレる(バラす)と思っていたらBでバレる(バラす)」という手法である。これらは認知のそれぞれの種類の組み合わせで実現できる他、「相手がバラすと思っていたら本人のミスでバレる」のような行為者の組み合わせによってもバリエーションを出すことができる。

=娯楽性:複数の流れ=

筋は基本的に「あれが起こったからこれが起こる」という風に1つの流れとして組み立てられるものだが、この流れを同時に複数の箇所で行う事も可能である。そしてそれらが整合性を保っている限り、複数の流れを使うことで物語の重厚性を増すことができる。

ただ、詩学におけるメインターゲットは「悲劇」であり舞台上での再現を念頭に置いているため、同時に複数の流れを見せる事が難しい。詩学においては悲劇と対比して「叙事詩」の方でこれが可能であると言及するのみである。

=まとめ=

以上が自分用に私見込みでまとめた詩学の概念である。汎用的かつ現代でも通じる部分のみを主に抽出したが、最低限の基礎としては十分ではないかと思う。あくまで最低限であり、現代的なキャラ立てであったり「熱い展開」のようなバリエーションはまだいくらでもあると思うが。

「筋の適切な長さ」など後述に任せた部分があるため、その部分は最後まで読んだ後に改めて読み直してもらえたらと思う。

これらの情報の使い方としては、まず自分がすごいと思っている物語を読み返し、「具体的に情報はどういう風に提示されているか(認知)」「状況は何がどう逆転しているか」「また、逆転を発生させた認知は何か」を考える事から始めるのが良いのではないかと思う。また、その際は「読者に知らせたい情報(導入や伏線として使う)」と「登場人物に知らせたい情報(登場人物の行動や心情を変化させるために使う)」を分けた方がわかりやすいかと思う。

今回省略した部分について軽く補足すると、「キャラクターの性格や思想も必然性や妥当性が必要」「二重の筋(複合的な筋の事ではなく、不幸な主人公が幸福になる&幸福な敵役が不幸になるような2つの変転が起こるもの)より単一の筋の方が悲劇には望ましい」などがある。キャラクターに関しては整合性の観点から見ても自明な内容であり、二重の筋に関しては悲劇固有の側面が強いため省略した。